月並みな言い方をすれば、長いようであっという間だった。当初8ヶ月の予定が段々と短くなり、最終的には5ヶ月になった。その間に4年働いて溜めた貯金を全て吐き出し、出発前にいただいた餞別等も底をつきたわけだから、まあ贅沢な5ヶ月間を送ったものだと改めて思う。逆に、その金でかけがえのない時間を買ったと思えば安いものか。
出発間際からアメリカ入りした直後は、明日のことさえ見えていなかった。生来の性格なのか、未知なる国の未知なる競馬に行くというにも関わらず、具体的なことは何一つ解っていなかった。楽天的と言えば聞こえがいいが、つまりはいい加減だったのである。嫁が出鞭をくれまくったのは言うまでもない。まあ、ある程度の楽天家でなければ海外の競馬場を巡りたいと思い立って、仕事をやめ、貯金を使い果たそうなどとは思わないだろうが。
そんな一寸先は闇のアメリカも、何度かの蜘蛛の糸により救われた。ひとつは、嫁の高校時代の同級生・宮脇邸へのホームステイ?。10年ぶりの連絡にも関わらず、家へ泊まることを快く勧めてくれ、さらには料理人であるその腕前を毎晩ふるってくれた。わずか3日間の滞在であったが、英語とジャンクフードに押しつぶされそうになっていた当時は、久しぶりに生きた心地がしたものである。
次なるは、ハリウッドの某ホステルで知り合ったクールなミュージシャン・コンビ、マサユキ君&ケンヤ君。最初はお互いに、(日本人かなぁ)と牽制しあっていた。ふとしたきっかけで意気投合し、大宴会へと発展した。酒の力を借りて…というのが少々情けないが、ホステルに滞在する他の外国人パッカーとも喋りまくった。その翌日、彼らは帰ってしまったが、日本に帰ったら「二人の結婚ライブをやりますよ」と言ってくれた。その気持ちが何よりも嬉しかった。彼らの地元である大阪に、帰ったら行こうと嫁と話した。マサユキ君は来年、ワーキング・ホリディでカナダに行く計画を立てているそうだ。ケンヤ君は、体調を崩しているそうだが、もう回復したのだろうか。彼らとも話したいことがたくさんある。
最後は、当Blogを通じて産まれた奇跡(大げさか)であるp4p.氏。アメリカに在住されている氏は、僕のケンタッキーダービーのレポートを読んで、大いなる間違いのもとにダービー観戦したことを指摘してくれた。最初は愕然とした。旅の大きな山場であるケンタッキーダービーで、今となっては初歩的なミスを犯した(詳細は過去の記事を参照のこと)ことが、悔しくもあり、また恥ずかしかった。何度かメールをやりとりしているうちに、一緒に競馬に行きましょうということになった。場所はプリークネスSの行われるピムリコ競馬場。前日にこちらの服装を告げておき、もし見つけられたら声をかけてくださいという約束をした。しかし、当日はもの凄い人入り。半ば無理だろうなぁと思っていたら、「人違いでなければ…」と声をかけられた。むろんp4p.氏である。僕らが入場してから30分と経たないタイミングだった。聞くとそれも偶然で、野暮用で一般入場席に立ち寄った時、僕らを見かけたということだった。ピムリコ競馬場を案内してもらいながら、アメリカ競馬についての現状を伺った。馬も厩舎もジョッキーもトレイナーもろくに知らない素人だったので、p4p.氏もさぞ苦労したことと思う。さらに、帰りは車で駅まで送ってもらう図々しさを発揮してしまった。その後もやりとりは続き、場所をNYへと移すことになる。ここではメトロポリタン・マイル、ベルモントSの2大ビッグレースをともにし、アメリカ競馬の造詣をさらに深めることができた(とはいえ、知らない人よりも半歩進んでいるくらいだろうが)。もし、p4p.氏が旅に登場していなかったら、解らないことは解らないままに、知らないことは知り得ないままにアメリカ競馬を終えていたことだろう。アメリカのクラシック三冠を乗り切ることができたのも、p4p.氏の尽力によるところが大きいと思っている。感謝しつくしても足りない。ありがとうございました。
2ヶ月間のアメリカ滞在を抜け、僕らヨーロッパへと向かった。最初は英国はロンドン。目的は王室競馬開催、ロイヤル・アスコット。ここでの顛末はすでに書いたので省くが、まあひとことで言えば「恥をかいた」わけである。もともと捨てるものなどなかったといえばそうだが、生きた心地はしなかった。それでも、Blogには皆々さまの温かいお言葉をいただき、いい経験・いい財産になったと、自己昇華するに至った次第である。ここら辺になると、僕らの旅もだいぶこなれてきた。ヨーロッパという大陸がそうさせるのか、単に「やれる」という実感を得たのかは解らないが、気持ちに多少のゆとりが持てた。かわりに財布のゆとりはなくなってきたが。
一路進路を東に取り、次なる地はハンガリー。こと競馬に関していえば、ハンガリー競馬にもっとも興味を持っていた。かつてはキンツェムという奇跡の馬を擁して一時代を築き、時代の流れとともに埋もれて行ったハンガリー競馬。そのレベルや体制よりも、そこにどんな空気が流れているのか? それを吸い込んでみたかったのである。その空気は、そのままハンガリーを感じさせた。
というのは、ハンガリーは変化を好まない国だという。EUに加入こそしているが、未だに通貨はハンガリー・フォリント。母国語は、ドイツ語と英語が多いヨーロッパの中で、ハンガリー独自のマジャル語を使っている。そうしたマイペース(といっていいのかどうか)さが蔓延しているのか、どことなくのんびりした雰囲気の国だった。その空気は、競馬場にも流れていた。競馬場特有の鉄火場感がないわけでもないが、それよりもひなたぼっこでもしたい気持ちになってしまうのだ。(次のレースがはじまってしまう!!)そんな焦りも湧いてこない。不思議な時間の流れ方をする競馬場だった。
そんなハンガリーだけに、僕らもご多分に漏れず足掛けひと月もいることになった。その大半を、今やハンガリーの観光地(!)となっている有名日本人宿「ヘレナハウス」で過ごした。なによりも「安い」ということに尽きるが、この宿で出会う人たちもまた、ヘレナハウスのサービスといっても過言ではないだろう。とにかく世界中を旅している生粋のバックパッカーが集う。ここで互いに情報を交換しあい、また新しい旅に出て行く。中には別々に来て、ヘレナを出て行く時には一緒に旅をすることになる人たちもいる。類は友を呼び、パッカーはパッカーと引かれ合うということか。僕らも多くの人たちに出会った。みんな、今も世界のどこかを重いバックパックを背負って闊歩しているはずである。みなさん、くれぐれも体にはお気をつけて。楽しい旅を続けてください。
オーストリア、ドイツ、フランスでは競馬場に行くことができなかった。これは旅の大きな心残りである。僕にもう少し知識とお金と計画性があれば、絶対に行けたはずである。ただ、フランスでは凱旋門賞の舞台であるロンシャン競馬場を見学(外からだが)し、PMUと呼ばれる場外馬券売り場では馬券も買った。魂はフランスに置いてきました。あとは10月1日、ディープインパクトに存分に走ってもらうばかりです。
上記3ヶ国のかわりといっては何だが、当初の予定にはなかったギリシャへ行った。ハンガリーからはバスで24時間という遠さだったが、ギリシャの競馬場への道も果てしなく遠かった。土地勘もない、地図もない中、アテネの片隅で迷子になった時はさすがに(やばいかなぁ)と思ったが、死ぬほど歩いて競馬場へ行くことはできた。ギリシャでは競馬よりも、競馬場への行脚の方が思い出深い。なんだか本末転倒だが、これも放浪競馬らしくていいなぁと妙に納得している。
当初はコックスプレート、メルボルンCの両ビッグレースに行くつもりだったので、オーストラリアも旅の道程に組み込んでいた。時期は10月後半から11月頭。およそそこまでは息が続かなくなったので、オーストラリアはわずか4泊5日で抜けることとなった。それもシドニーからメルボルンへの移動込みである。まさに無駄骨とはこのことで、競馬にも行けない、遊ぶ金もないの二重苦だった。南半球で僕らが訪れた8月後半は寒いし、風邪だけもらって出てきた。ただ、競馬場へのアクセスは比較的に便利そうだったので、いずれは時期を絞ってリベンジしてみたい。
旅の締めくくりはシンガポールだった。何か思い入れがあるわけではないが、世界一周チケットの利用上、4大陸まで移動できるということで、競馬もあるし組み込んだに過ぎなかった。当然ながら、物価はヨーロッパに比べれば格安だし、アジアということで料理も馴染みがある物が多かった。毎日通ったブギスストリートの屋台では、チャーハンがS$3で食べられた。味は五つ星。店員のオジさんとも仲良くなった。
シンガポール滞在中、嫁の口癖は「終わっちゃうんだね」であった。僕も、旅の終わりが近づくにつれて、はじめて“寂しい”という感情が湧いた。シンガポールは雨が多かった。旅の別れの涙雨…だったのだろうか。
競馬+バガボンド(放浪者)というストレートすぎるタイトルも、150日も苦楽を共にすると捨て難いものがある。ただ、旅の当面の終了ということで、更新はひとまず終わろうと思う。無論、世界には、僕が知らない競馬場がある。いや、むしろ知らない方が多い。だから、今回はあくまで「第一部完」ということである。鋭気を養って、金を貯めて、再び世界に出るのはいつになるかわからない。しかし、これで終わりにはしないつもりである。
Blogの末尾を飾るのは、やはりこのフレーズ以外に浮かばない。僕の競馬の原点、寺山修司の言葉から。
「みんな、みんな、競馬場で会おう!」
Road to 競馬事変。
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